オンリーワン?花屋の花はナンバーワンでしょ。

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家の近くの川の堤防沿いを歩くと、菜の花の黄色い可憐な花もちらほらと目に付くようになってきた。一方で、立ち枯れたセイタカアワダチソウのこげ茶色とススキの薄茶色が、陣地を取り合うようにして冬の余韻を残している。しかし、こうして、新しく芽吹くものと枯れていくものが同じ場所にあるのが自然の姿なのだろう。
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そう考えると、花屋というのは不自然な世界だ。盛りを迎えてきれいに咲き誇った花しか存在していない。未熟なもの、枯れそうなもの、形の悪いものは表舞台に出ることを許されない。人間界で言うなら、子ども、老人、ブス、障害者はいない、ということだ。

花屋の花を、どれもきれいでどれも特別、僕ら人間一人ひとりはそんな花屋の花のように世界に一つだけの「オンリーワン」で、ナンバーワンになれなくてもいい、と歌う「世界に一つだけの花」という歌がある。しかし、花屋の花が店先に並ぶまでの過程は、そんな甘っちょろいものではない。

花の多くは人間の手によって品種改良を施されており、原種が花屋で売られることはまずない。「元々特別なオンリーワン」と、オリジナルの姿を尊重されることはなく、人間様が気に入るよう、より美しく、より大きく、病気に強くなるよう手を加えられてきた。

そしてその花をまず花卉農家が等級ごとに選別。当然形の悪すぎるものは出荷されない。その後花市場でせりにかけられて値をつけられ、卸業者などを経て花屋に。花屋でも上述したとおりの選別を受け、値段をつけられて店頭に。「世界に一つだけの花」では「それなのに僕ら人間はどうしてこうも比べたがる」と歌ってるが、花は、品種・等級・産地・仕入れ価格などで明確に比べられている。

ナンバーワンを目指して、まるで受験戦争と競争社会を生き残ってきたような花たちが「花屋の店先に並ん」でいるのだ。どんな花でもきれいだ、人様に差し上げても失礼ではないと本気で思うなら、こんな人工的な所作にまみれた花屋の花など選ばずに、野に咲いているタンポポセイタカアワダチソウでも摘めばいい。

普通、ビジネスで使われている「オンリーワン」という言葉は、決して、個々の企業やビジネスマンが貴重で尊重されなければならない存在だ、という意味ではない。「オンリーワン企業」といえば、「その会社でしかできない技術や商品をもつ会社」である。

個人に置き換えると「その人にしか出来ないことをもっている人」となり、「誰にでもできるようなことしかできない人間」はオンリーワンとは呼ばれない。「世界に一つだけの花」で歌われている「オンリーワン」とは全く意味が違うのだ。一般に言われる「オンリーワン」は、自分にしか出来ないもので、かつ社会に認められるものを持っている人であり、一握りの天才か、血のにじむような努力をした人でなければ名乗れないものなのだ。

では、花屋の花ではなく、野生の花たちはどうかというと、やっぱり厳しい生存競争をしている。セイタカアワダチソウとススキが覇を競い合っているように。たまたま種の根付いたところの環境がよく、競争なしに咲き誇ることができる花もあるにはあるだろうが。

花の歌なら「世界に一つだけの花」よりも、アニメ「ベルサイユのばら」の主題歌のほうがいい。

♪草むらに 名も知れず 咲いている 花ならば
 ただ風を 受けながら そよいでいれば いいけれど
 私は薔薇の定めに 生まれた 華やかに激しく生きろと生まれた
 薔薇は薔薇は 気高く咲いて 薔薇は薔薇は 美しく散る



欧州の貴族社会には、貴族には貴族であるという特権の対価として、社会的貢献をする義務があるという「ノブレスオブリージュ(Noblesse Oblige)」という考え方があった。単に地位が高いというプライドだけではない。志の高い気高さである。

私達は貴族でもなんでもないけれども、こういう美しい「薔薇」を心の中にもって生きていくことはできるのではないか。自分は「もともと特別なオンリーワン」だと嘯いて、外へ関心を向けるのを諦めたりするのではなく、心の中に、こうした気高い薔薇を一輪もって努力し、国民としての責任を果たしていくことの方が大切だと思う。