親父が裁判官だろうが、そうでなかろうが、そんなもんほっといたれや。

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何故こんな批判調になるのか分からない。週刊新潮の「父親は裁判官だったという前原代表のウソ」という記事。民主党前原誠司代表は、中学2年生のときに亡くした父のことを「裁判官」だと言っていたが、実際は「裁判所の総務課の庶務係長」であったと。死因は自殺。借金を苦に、鉄道に飛び込んだのだとか。

確かに、前原代表の言ってきたことは事実とは違うかもしれない。しかし、社会経験のない中学生が父親の職業について詳しくも知らないだろうし、父親も家の中で自分の仕事のことをペラペラとはしゃべらないだろう。裁判所に勤めていた父を、裁判官だと思い込んでいたとしても不思議ではないと思う。

夫に先立たれた前原代表の母も、まだ中学生の息子に自殺の真相など話せなかっただろう。前原代表の父は職場の同僚からも金を借りていたそうだ。であれば、夫の職業のことも語りにくかったに違いない。

父親不在の母子家庭の中で、息子を立派に育てるために「お前の父親は立派な裁判官だった。お前もお父さんみたいな立派な人間になるんだよ」と、プラスのイメージで教え諭したのかもしれない。そうして幻の親父の背中を、天空に輝く星のように見上げながら前原少年は追い続け、奨学金をもらいながら勉強に励み、京都大学に入り、松下政経塾に入り、政治家となって野党の党首にまで登りつめたとしたら、これは「賢母の美談」として語るべきではないか。

私は大学時代から3年ほど、児童養護施設(昔でいう孤児院)でボランティアをしたことがある。そこには親がいない子どもや、親が養育できない子ども、あるいは親に養育を放棄された子どもがいた。中には、親が罪を犯し、刑務所に入っている子もいる。そんな子どもに、親のことをどう説明するか。そのまま真実を伝えれば、子どもの心に暗い陰を落とし、「自分は犯罪者の子なんだ・・・」と成育上あまりよくない影響を与えるだろう。「今お父さんは遠いところで一生懸命働いている。だから君もがんばれ」とか、そういう事実とは違うことを子どもに言うのが普通の感覚ではないか。

日本人は本質的に自虐が好きなのか?そうではないだろ。「近隣諸国」が捏造した歴史を教科書に載せてまで、日本人を犯罪者みたいに子ども達に教え込んで、贖罪意識を植え付けたり、「アジアの国々」の反日資料館なんかに修学旅行でわざわざ出向いて、生徒に土下座までさせてしまう学校もあるが、常識的に考えて、そんなものは子どもの心に悪い影響を及ぼす。自暴自棄のいじけた人間や、国や祖先・親を憎む人間を生むだけだ。自国の歴史については、多少の悪い面はあっても、プラスのイメージで子どもの心に与えるべきだと私は考える(韓国のように、自分達が肯定感を持ちたいがために、異常なまでに歴史を捏造し反日に傾くのはおかしいと思うが)。

亡父の過去を掘り返すような真似をして、自虐史観を押し付けるがごとく、前原代表の生い立ちをわざわざ自虐の色に染める必要なんてないはずだ。

父親は裁判官だった」というのは、雑誌に書かれているとおり「嘘」なのだろう。でも、尾崎豊風に言えば、愛のある「誰も傷つけぬ優しい嘘」だったと私は思う。その嘘が、仮に少年時代の前原代表が父の死と母子家庭の痛みに耐え切れずに心の中で生み出したものだったとしたって、私は許せると思う。それで有権者が著しく不利益を被ったわけでもない。その嘘で、少年期の前原代表が健全に育ったのなら、それでいいではないか。親父が裁判官だろうが、そうでなかろうが、どうでもええやないか。つまらんことを根掘り葉掘りせんと、ほっといたれや。と思う。

「父を亡くした中学生」というと、イラクで銃弾に倒れた奥克彦大使の息子さんが、葬儀で号泣しながら立ち尽くしていた姿を思い出す。この奥大使の息子さんの健全な成長を願わない人はいないだろう。故人に後ろ暗い過去があったとしても、よほどの公益性がない限り、そんなものは公にするべきではないし、その子どもが、自分のために、自分の親について多少の思い違いをしていても、私はいいと思う。
儀仗隊にかつがれて車に向かう奥克彦参事官の棺を見守る遺族たち=平成15年12月4日午後4時すぎ、成田空港で(asahi.com)
平成15年12月4日(asahi.com)